Gariのピアノ歴〜2人目のピアノの先生

北から南へ

中学1年生の夏、旭川市から高松市へ引っ越しました。小学校時代は青森、札幌、旭川とずっと北国暮らしでスキーはウェーデルンまでできるようになっていましたが、水泳はまるでダメ。バタ脚すらできなかったんです。私の通っていた北海道の小学校は冬の体育の時間は全てスキー、遠足もスキー、あまり好きじゃなかったけど、嫌でも上達しました。スケートもスピンやジャンプができるくらいまではやったなぁ。そのかわり水泳の時間は皆無だったんです。高松へ引っ越して最初の体育の時間がプール。泳げないの私だけ。かなり恥ずかしい思いをしてスイミングスクールへしばらく通ったのを覚えています。


2人目のピアノの先生

引越してもピアノは続けました。私のピアノライフ、2人目の先生は声楽とピアノを両方やっていた女性でした。以前に中学校の音楽の先生をやっていた方で、厳しくて貫禄がありました。それでも習っている方の私はマイペース。部活もやっていたので、ピアノにかける時間は激減してました。


ツェルニー恐怖症

新しい先生は、今まで使ってきたテキストをチェックし、ソルフェージュを切って、ハノンを追加。歌のレッスンが無くなってよかったと子ども心に思ってました。ハノンはレッスンで見てもらうわけじゃなく、自分でやっておいてと言われただけだったので、最初の数ページだけやってお蔵入り。ツェルニー30番は前の先生から引き続き、全く好きになれなかったので、相変わらずノロマなカメのようなスピードで進めて行きました。この若さで5年以上かけて30番を卒業、ようやくツェルニー40番のテキストに入ったのがもう高校1年生の終わり頃でした。最初の先生も2人目の先生もツェルニーは1番から順に、1つもスキップすることもなく全てのピースやらされていました。あまりに時間をかけすぎて、全然進まなかったので、ツェルニー恐怖症になってしまいました。



引き続き大嫌いなバッハ

そしてやはり大嫌いだったバッハ、前の先生から引き続きインベンション。全く練習せずにレッスンで弾くだけという状況。インヴェンションを3曲くらいやってからシンフォニアを1曲やっただけでした。でもインヴェンション13番だけは母親に褒めてもらってまぁまぁ弾けていたのを覚えています。


ソナチネ集からソナタ集へ

ソナチネ、ソナタは大好きで、こちらはスムーズに進めていました。ツェルニーの進みと比べるとかなりアンバランスですね。4年間でソナタ集2まで進みました。ソナタ集2になると有名な曲がたくさん入っていたので、ワクワクしましたね。「悲愴」の第3楽章が弾けた時にはすごく嬉しかったのを覚えています。


発表会で弾いた曲

この先生、発表会ではかなり実力より難しい曲を与えてくれたのを覚えています。当時バッハのシンフォニアをほんの1ピースしか取り組んでいなかった私に「イタリア協奏曲」を発表会に持ってきました。バッハで初めて「いい曲じゃん!」と思えるピースで、発表会で弾くということもあり、きちんと練習しました。

最後の発表会ではシューマンの「飛翔」。母親がえらく気に入っていたピースで、今でもリクエストされます。


中1の夏から高2の夏までの4年間、ピアノに対する熱意は下降の一途でしたね。勉強、部活も忙しく、ピアノは1週間に2〜3日しか触っていませんでした。好きなソナタ集だけ練習しているような状況でしたから。今思うと「もったいな〜い!!」。高校生になると、周りで長くピアノを続けていた友人たちはショパンの幻想即興曲とかベートーベンの月光第3楽章とかバリバリ弾きこなしていて、自分とは全然違うなぁと感心していました。


コメント